混色の貞操
029:秘密の色
めぐり合わせが悪いのか。交渉の相手を宗像へ限定しようかという矢先に限って対立する。宗像が直轄する部隊は公僕であり治安維持に務める。対する尊が率いる吠舞羅は社会的にはただの無頼の集まりでしかない。諍いや戦闘の規模が大きくなるほど、宗像たち公僕が出動する率も上がる。始末として拘束される面子もおり、その人選から尊が外れることはない。何人かの犠牲のもとでねぐらへ帰り着いた面子が早々に酒盛りを始める。祝杯ではなくただの気勢を上げるためだけだ。酔っ払い出すと愚痴の語り合いに落ちがつく。吠舞羅の性質として骨子の守りは厳しいが、些事には大雑把だ。面子が酔っ払って騒ぐ中からいつの間にか頭の尊が抜けているのもしばしばだ。古馴染みは猫のように居着かない尊の性質を承知しているし、後から加わった面子もそういうものなのだと教えこまれている。
上着をはおってねぐらを出る。がらんがらんという鐘の音を断ち切るように扉を閉めたところで美咲と鉢合わせた。近所の常時開店の店舗のロゴが入ったビニール袋を提げている。そういえば騒いでいる中にいなかったな。設けられた段差のせいで視線の位置が余計に開く。美咲が脇へ退いた。段を降りても身長差がある。尊は長身だし美咲は小柄だ。どっか行くんすか? 言われて何気なく隠しを探ると煙草が切れていた。…煙草? オレがひとっ走り行ってきます? 小脇に抱えたスケートボードを示す。いや、いい。草薙が飯を作るっつってたから相伴してろ。酒は飲むなよ。美咲はまだ未成年だ。本来であればこのねぐらへの出入りさえ眉をひそめられやすい。糾弾されるような行為は避けるに限る。美咲は笑って袋を揺らす。判ってます!
「おい、八田ァ」
気怠い低音にも美咲は素早く反応した。は、い。言葉が終わる前に唇をついばむ。すれ違って二人の高さが揃ったからという以外の理由はない。ふっくらとすれていない味がした。接触に驚いて半ば開くところへ舌をねじ込む。頤を抑えてさらに深く口付ける。尊が突き出す舌を美咲はたどたどしく絡めてくる。ともすれば離れそうな稚気に笑って舌を絡めて吸い上げる。美咲の腕が跳ねて袋が大げさな音をたてる。飴玉くらい咥えとけ。唾液の糸を引いて離れる尊の妖しい笑みに美咲が真っ赤になった。煙草喫みじゃない奴の味は久しぶりだ。するりと離れる尊を美咲も追わない。火照った顔のままでバタバタとねぐらのバーへ飛び込む気配がする。尊の気分はすぐに収まる。発火した際の激しさの反動のように普段の尊はどこか無気力だ。美咲の舌を吸ってもそれ以上の気分がない。美咲の側の事情は考慮しない。元来、そういう性質だった。
ぶらぶらと繁華街の裏ばかりうろついた。了解ごとや手続きを知っているだけで世界の深部が変わってくる。後ろからついてくる足音に気づいている。舗装された道も泥道も同じようについてくる。振り向けば居ない。だが纏う空気が違うから気配がわかる。敵意や怒りに満ちた気配はざわりと騒がしい。このまま袋小路に行ったらどうするのか試してみたくなる。速度を上げる。音の間隔が荒くなり、しまいには走りだした。それでも後ろからついてくる感触がある。角を曲がったり立ち止まったりする程度で尻尾を出すほど杜撰ではないようだ。
走る速度を上げて立て続けに角を同じ方へ曲がる。小さい碁盤のようになっている地域であったから追跡者の背後へ回りこむ事が出来た。着崩した私服。別称にいただく青を基調にした制服ではなかった。毛先の跳ねた鉛黒の髪がわずかに乱れている。眼鏡はそれだけで彼の印象を決定づけるようにくっきりとした黒縁だ。頭脳労働のほうが得意なのだろうと思わせるほど肩を上下させて息をしていた。
「なんなんだよ、くそっ…」
尊は大きく息をついてから口角を吊り上げる。
「伏見か」
美咲と同じ頃合いに知りあい、吠舞羅から出奔した。年の頃も美咲とそう変わらないと聞いている。小柄なくせに運動量を誇る美咲とは反対の性質で口先や指先で事態を切り抜ける。猿比古という珍しい名前だった。由来は知らない。
「そんだけ動けるなら普段から動けっての」
猿比古の言い草に尊は乱れた呼吸をリセットするように笑った。ねぐらでの尊は寝るか飲むか食うかだ。戦闘時以外の尊は淡白に無害だ。猿比古は折っていた体を起こす。ふぅっと息をついて尊を睨めつけてくる。あんた趣味変わったんですか? 尊はわざと知らぬふりを通した。知らねェな。猿比古が明確に苛立った。テンポを乱されるのを嫌う猿比古らしい衝動だ。
「美咲みたいなのとキスするんですね」
「ゴムも要らねぇしな」
最近はご無沙汰か? おかげさまで。投げつける言葉の切り返しも早い。室長には報告しました。まさかこんなプライベートでくそったれなこと頼まれるとはね。睨みつける位置を高くしようとする癖が見えた。猿比古は見下げる体勢で相手を挑発する。小柄な美咲などうってつけだ。小首を傾げて仰ごうとするのはもはや彼のスタンスだ。
「宗像ァどうだよ」
猿比古の口が開いたが音を発しない。別の位置から玲瓏とした声がかけられた。
「おや、気にしていただけるとは」
尊が目線を向ける。猿比古はやれやれと肩を落としてみせた。艶のある濡れ羽色の髪は長く額やうなじを隠した。猿比古と同じように眼鏡をかけているが宗像は縁のごく目立たない銀を使っている。こちらも私服だ。通常顔を合わせる際にほぼさげている洋刀もない。
「最近派手にやっているそうですね」
穏やかな笑みと裏腹にその声は冷えきっている。理由は尊にも判っている。宗像を相手にすると決めても奔放さは変わらなかった。揶揄する目的になればなお気軽に唇を重ねて体を弄らせる。
猿比古が端末を宗像へ渡す。二人して覗き込む表情が固い。尊だけが笑いを堪えるように喉を鳴らした。切り込み隊長が可愛くなりましたか。猿比古に至っては何も言わない。ただ表情の険しさは宗像以上だ。それだけで想像はつく。尊の奔放は情報保護にも及んだ。滅多なことでは隠したりしないのだ。猿比古に撮影されていたのだろうことは想像がつく。なんといっても『クソッタレな』依頼である。
「周防」
宗像の声を皮切りに伏見がすっと姿を消す。なンか気ィ使われてんぞ。投げやりな尊に宗像はあっさり敬語を吐き捨てた。言い含めてあったからな。
「周防、ずいぶんおいたをしてくれる」
警邏に参加するだけで噂が耳に入ってくる。公私の区別くらいつけるンだな。お前こそ貞操観念をもて。肩をすくめてかわすと上着の襟を掴み上げられる。
「あんまり人のこと舐めるんじゃない」
「ハッ、今日はいつになく積極的じゃねェか」
爪が尊の頬へ先を走らせる。尊は怯むでもなく好きにさせた。責めるように立てられた爪が次第におさまり、指のやわい感触が尊の肌を滑った。首筋を撫で下げてから鎖骨をなぞってくぼみを押してくる。気道が一瞬詰まって喉を鳴らすのを宗像が笑った。短い真朱の髪を耳ごと引っ張られる。痛みに眉を寄せるところへ唇が重なる。上着の襟を抜かれて露出するうなじへ抉るほど強く爪が立つ。震えて身を捩るのを宗像が壁際へ追い詰める。
「おしおきしないとな」
ここ、千切ってやろうか。首から滑り降りた指先が摘んだのは胸の先端だ。ぷくりと膨らんで存在を主張する。キス一つでその気になったか? シャツ越しの愛撫はもどかしい。顔を背けて肩をすくめる。集中するように収縮する逆側を宗像が無造作に掴んだ。
「――ッぁ、あ!」
ただでさえ過敏な脇腹を掴まれて頓狂な悲鳴が上がる。突然の刺激に体はひくひくと余韻に震える。謝る気になったか? 何を謝れって? 不遜に流す尊に宗像は穏やかに笑い返す。出来の悪い子供を眺めるのに似ている眼差しだ。
「オレのことはオレ次第だからいいとして。伏見くんには手を出さないでもらおう」
「八田のほうはいいのかよ」
だらしなくポッカリと口を開けて赤い舌を見せつける。唾液で潤んだ口腔は淫らに湿って透明な糸をひく。それを塞ぐように宗像は唇を重ねたり食んだりする。そこは彼らの話であってオレたちは介在すべきではないな。さらされている首筋へ噛み付かれる。出血はないが固い歯の感触がした。同時に微温くて柔らかい舌がねっとりと舐ってくる。
「まぁ、女同士で番うのは難しいか」
くっと笑われて尊は宗像の脚へ蹴りを入れた。あんまり子供をからかうもんじゃない。前触れもなく宗像の手が尊の脚の間を握りこむ。
「そしてオレも、からかわれるのは好きじゃなくてな」
四肢を震わせながら見据えるのを宗像は愉悦の笑みで返してくる。跳ねっ返りは押さえつけてこそだと思わないか? 優位を覆してやるのが楽しくてたまらない。…この変態野郎。お前もだろう。
尊の手もシャツの裾から入り込んで宗像の腹や胸を撫でた。独特の技法で剣を使うから拳闘する尊とは体の作りが違う。着痩せするタイプなのか触れた手応えと見た目が咬み合わない。子供のような熱心さで耽ると笑われた。念入りだな。お前はしつこいンだよ。首へ腕を回して抱き寄せる。ささやき交わす耳朶に眼鏡のつるが見えた。今更色事が嫌いとかぬかすンじゃねェぞ。
「お前みたいな女を前に何もしないと思うか?」
とんだ秘め色だ。どちらからともなく唇が重なる。貪りすすり合う水音が胎内へ響く。息を継ごうと離れた互いの舌先を銀糸がつなぐ。ちゅるりと濡れた音がしてふたりとも同じように糸を舐めとって笑い合う。尊の膝が折れて屈むところへ宗像は拘束をゆるめてズボンの前を開く。尊はそのまま顔をうずめた。
《了》